2017年4月30日「重荷を担う働き人」

聖書箇所:Ⅰ列王記19章19~21節
熊久保 公義 牧師

エリヤはそこを立って行って、シャファテの子エリシャを見つけた。エリシャは、十二くびきの牛を先に立て、その十二番目のくびきのそばで耕していた。エリヤが彼のところを通り過ぎて自分の外套を彼に掛けたので、
エリシャは牛をほうっておいて、エリヤのあとを追いかけて行って言った。「私の父と母とに口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。」エリヤは彼に言った。「行って来なさい。私があなたに何をしたというのか。」
エリシャは引き返して来て、一くびきの牛を取り、それを殺し、牛の用具でその肉を調理し、家族の者たちに与えてそれを食べさせた。それから、彼は立って、エリヤについて行って、彼に仕えた。

聖書 新改訳©1970,1978,2003新日本聖書刊行会

 

神は新しい預言者としてエリシャを選ばれた。

しかし彼の人となりは詳細には描かれていない。

分かっていることは、イスラエルの干ばつが止み、彼自身はこれまでの仕事を再開しようとしていたこと(土を耕そうとしていた)ぐらいだ。12くびき(24匹)の牛の数は、畑地が広大であったことを示すが、それすら彼の持ち物であったかどうか定かではない。大事なのは、彼のやる気や能力、持ち物ではないのだ。主が選ばれて働き人は立つ。主の呼びかけこそ決定的な意味を持つものである。

先輩預言者エリヤとのやり取りが続く。エリヤは自分の姿を見せ(通り過ぎてから)、主の権威の象徴である預言者の上着をエリシャの肩にかけた。召しとは曖昧なものではなく、自覚できるものだ。エリシャは家族にいとまごいをさせてほしいと願うが、エリヤは「私の行為とあなたとの関係は何か?」と問い、家族のもとに戻っても、主からの使命が与えられた事実を覚えているよう注意した。だから21節で彼は働きの道具であった1くびきの牛とその器具を燃やしてその肉を家族に分けたのだ。これは単なる歓送会ではなく、古い自分との決別を意味している。主のものとされた者たちにはある面での決別が見られるのだ。