2017年6月4日「律法か御霊か」

聖書箇所:ローマ人への手紙 7章 5~6節
熊久保 公義 牧師

私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。

聖書 新改訳©1970,1978,2003新日本聖書刊行会

パウロはキリスト者に与えられた大きな変化の一つとして、律法から解放され今では恵によって主に仕えている点を示す。元来良いものであった律法からどうして解放される必要があるのか。
律法によって罪の欲情がかきたてられるため。~してはならない、と注目すればするほど、私たちは茂樹され、それを頭の中で行うようになり、やがてそのことを行うまでに至る。またたえず恐れに支配されることになるし、反対に律法の解釈を自分勝手に変えることによりあたかも守れているという自己満足に陥らせることもある。その原動力は自力にかかることになり、守れていない人を裁くようになるだろう。律法はついには私たちを絶望に至らせる。
反対に御霊の支配は、満ち足りた栄光の立場を確認させ、罪を行いたいと思わなくさせる。恐れではなく十字架による救いを確信させ、愛と感謝により律法を行う者にさせる。自己解釈ではなく、御霊はみことばの真の意味を悟らせる。自力ではなく御力によって行う。御霊は失望に終わることがない。
キリスト者は律法が守れなかったことに対する恐れに縛られて生きないのだ。むしろ赦された者、新しくされた者として、御霊に生き、律法を全うする。