2017年8月20日「目が開いて」

2017年8月20日「目が開いて」

聖書箇所:マルコの福音書 10章46~52節

熊久保 公義 師

彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。
すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないで良い、さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

聖書 新改訳©1970,1978,2003新日本聖書刊行会

 

救いとはそれを受け取ったか否かはっきりしているものであり(中間はありえない)、救われた者は大きく変化する。本日の箇所に出てくる盲人バルテマイの姿はそのことを示す。

彼はどのようにして救いを得たか。
彼はまず「聞いた」。目の見えない彼はエリコの町で物乞いをしながら人々のことばを通してイエス・キリストのことを聞こうとした。だからこそ彼はイエスがこの日エリコの町にやってくることを知っていたのである。私たちも教会でイエスの話しを聞き続けたい。

次に彼は「叫んだ」。
普通の物乞いがする金銭を求める呼びかけではない。救い主イエスに自分がここにいることを是が非でも知ってもらおうと大きな声で叫び求めた。私たちの救いも知るだけではなく、自分にそれが必要ですとイエスに叫ぶ
ように求めることが必要である。

彼は続いて「捨てた」。
イエスが自分を招いておられると知った彼は、何もかも捨ててイエスのもとに近づいた。物乞いにとって命の次に必要な上着をも手放してイエスに近づいたのは、救いを受け取る時の姿勢を示す。罪に捕らわれていたときには必要であった様々なものを、イエスの救いを受け取る時にまで握り締め、結果救いを拒むことは残念なことである。

物乞いの原因は盲目にあった。それが取り除かれて自由を得、彼はその自由をイエスについていく自由とした。罪が取り除かれて救われた者もその後イエスについていく自由を得るのである。