2017年9月24日「不敬虔な者を義と」

聖書箇所:ローマ人への手紙 4章 5節
熊久保 公義 師

何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

聖書新改訳©1970,1978,2003新日本聖書刊行会

 
①果たして私たちは不敬虔な者か。
不敬虔とは神を認めない有り様のことを言う。私たちは神なしには誕生もしていない。今まで生きる上で必要なものや良いものはすべて神によって与えられているにも関わらずこの神に感謝もせず自分の力だけで生きていると思っているならば、やはり不敬虔と言わざるをえない。別の神々を拝み敬虔深いと言われる者であっても、まことの神のことばを聞けず従えないのであれば、結局のところ神を認めていないのである。教会に心開かれていても、神に従う決断をしないならばそれもまた不敬虔だ。私たちはすべて不敬虔な罪びとである。
②不敬虔な者はいかにして義と認められるか。
不敬虔を直す努力によって、とは書いていない。不敬虔なものを義と認めてくださる神を信じることによってである。神が不敬虔を義と認めることができるのは、イエス・キリストが罪の身代わりとして裁かれたためである。
③信じるとはどういうことか。
熱心さ、理解度の深さ、揺るがない信じるありようが救うのではない。不敬虔な者を義としてくださる神を信じるということであり、信じることは今すぐにでも応答できることである。それはプレゼントをただ受け取るという行為に似ている。