2018年5月13日「キリスト者の切迫感」

聖書箇所:ルカ4 章42~44節
熊久保 公義 師

朝になって、イエスは寂しいところに出て行かれた。群衆はイエスを捜し回って、みもとまでやって来た。そして、イエスが自分たちから離れて行かないように、引き止めておこうとした。しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」そしてユダヤの諸会堂で、宣教を続けられた。しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」そしてユダヤの諸会堂で、宣教を続けられた。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 
カペナウムの町での必要はまだ多くあった。人々はイエスを好意的に受け止め、朝早くから彼を引き止めようと掛けるほどであった。寂しいところ一人早朝から祈っていたイエスはしかし「別の村里にも神の国の福音を伝えるためにどうしても行く必要がある。」と彼らの求めには応じなかった。
人間的な考えでは好意的に受け止める人々のところに留まってそこを拠点にすることの方が合理的のように思える。しかしイエスには神の思いが迫り、神の必要を自分の必要として覚えたのである。
イエスの言動にはその後も「~しなければならない」との言葉が出て来る。これは神の思いを知るところから来る切迫感があったためだ。
私たちは何の思いに突き動かされているだろうか。自分の計算から導き出される思いか、それとも私たちを愛する神の願いが迫り「どうしてもしなければならない」との思いか。主の業は後者のような者たちを通してなされる。それは教会でも家庭でも職場でも変わらない。