2017年8月27日「人は尊い。だからこそ捨てるべきものを知る」

聖書箇所:マルコの福音書 8章31~38節
山口 康友 師

それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おう思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」

聖書 新改訳©1970,1978,2003新日本聖書刊行会

 
今日の個所には自分を捨てなければならないと書いてあるが、これは暗い死への誘いではなく命への誘いである。
弟子ペテロのメシア理解は軍事的政治的ヒーローであったが、イエスはそのペテロの考えを完全に否定した。イエスの言う「死ななければならない」との言葉にペテロは怒りを示す。私たちも神の言葉が細く聞こえる内は無視し続け、はっきり聞こえる時にはペテロのように憤慨してしまう
ことが多い。自分の期待や計画を方向転換するよう迫られた時、握りしめているものを白紙にできるだろうか。イエスについて行く生き方、自分を捨て十字架を負う生き方とは、勝手な期待や固定観念を捨てることだ。
「自分の十字架を負う」とは元来、罪人として十字架の横木を抱え人々のさらし者にされることだった。しかしイエスの十字架は私たちに命を与えるためのものである。エデンの園で神と共に生きることを拒否し霊的に死んだ者となった私たちのために、イエスは十字架上で罪を身代わりに背
負われることを通して、再び私たちが神と共に生きられる者としてくださった。私たちも十字架を負い、イエスについていくようにと言われている。神が示された道を忠実に全うし、自分の願いが反発する時にはそれを拒否し、神の最善がその通りなりますようにと、主によって願う道に進ませていただこう。