聖書箇所:使徒14章8~18節
熊久保 公義 師
ところが、アンテオケとイコニウムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した。しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町にはいって行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルべに向かった。彼らはその町で福音を宣べ、多くの人を弟子としてから、ルステラとイコニウムとアンテオケとに引き返して、弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言った。また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食をして祈って後、彼らをその信じていた主にゆだねた。
ふたりはピシデヤを通ってパンフリヤに着き、ペルガでみことばを語ってから、アタリヤに下り、そこから船でアンテオケに帰った。そこは、彼らがいま成し遂げた働きのために、以前神の恵みにゆだねられて送り出された所であった。そこに着くと、教会の人々を集め、神が彼らとともにいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったこととを報告した。そして、彼らはかなり長い期間を弟子たちとともに過ごした。
聖書新改訳©1970,1978,2003新日本聖書刊行会
ユダヤ人迫害者たちがルステラの町にやってきてパウロを石打ちにしてしまう。彼が死んだものと思い迫害者たちは去っていった。この出来事で一命は取り留めたものの大きな心の痛みとなったことだろう。しかしパウロは意識を取り戻すとその足でまたルステラの町に入っていく。隣町でも宣教した後にも、これまで宣教してきた町々、すなわち迫害者たちのいる町を巡り、教会を励まし続けた。困難の中でのこの彼の姿勢がルステラの町に住む少年テモテの心を変え、その時信仰を持ったようである(Ⅱテモテ3:11)。後の牧会者テモテである。パウロが苦難の中でも立ち続けられたのはなぜか?
①受け取った救いが本物だから。
否定されようとも、彼に対してなされた神の救いの業は真実であったために隠すことができない。自らのための尊い十字架の贖いが事実であると知る者たちは、苦難の中でも信仰を告白し続ける。
②先にある栄光を見続けていたから。
へブル書11章には、「この世は彼らにふさわしいところではなかった」と、天国に生きる特権を与えられた者は地上で苦しむことが記されている。しかし信仰者は苦しみの先にある天の富に目を留めることができる。
③内にある救いの宝のすばらしさが輝くため。
キリスト者が信仰ゆえに苦しむとき、救いの力がいよいよ証しされていくことになる。