2018年1月28日「外に連れ出されて約束を受け取る」

聖書箇所:創世記15章1−6
熊久保 公義 師

これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」アブラムは言った「神、主よ、あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか。」さらに、アブラムは言った「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。」すると見よ、主のことばが彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくるものが、あなたの跡を継がなければならない。」
そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 
教会では神を「信じる」ことを勧められるが、これは神の存在を認めれば良いということだけを意味しない。信じるとは何か?
アブラムは神を信じ神から義と認められた人物である。彼は75歳にして神を知り、その神に従って行きたいとの思いを持った。しかし従った後に約10年間経ったが何の変化も訪れない。祝福の約束を受けたが、現実には子ども一人与えられないのである。そのアブラムに神はことばを語られることにより再度現れた。アブラムは不満や疑問を神にぶつける。神はなおも変わらない祝福の約束を語られ、悶々とするアブラムを星がきらめく大空の下に連れ出された。アブラムはそこで自分の小ささや浅はかさとともに、神の偉大さを知らされる。
そして神には小さな自分を選び祝福を与えることがおできになることをそのまま信じて受け止めた。
①人は信じる前に神の言葉を聞かなければならない。神のみことばにより人は神を知る。
②外に連れ出される経験。
自分の狭い常識にとらわれている時には神の業を受け止められない。私たちは病気、喪失体験、人生の回顧などを通して、神により外に連れ出されるだろう。そこで神が私を一方的に愛してくださっている事実を知るのである。