聖書箇所:マルコ9章49−50節
熊久保 公義 師
人はみな、火によって塩気をつけられます。塩は良いものです。しかし、塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味をつけるでしょうか。あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
イエスはキリスト者を「塩」と表現し、地の腐敗を留める者とされていることを説明された。キリスト者はキリストにあって考え行動し発言する。その存在そのものが回りの罪の影響を止める影響力となるのである。見かけでなくその影響こそキリスト者の証しだ。
キリスト者の塩気は火によってつけられる(49節)とは、試練を経験することにより不純物が取り除かれて塩気の純度が高まることを意味する。キリスト者も試練を経験するのであるが、それは無駄に終わらず、ますます信仰の告白が明確になるであろう。
塩として意識をしなければいけない点は二つある。イエスは①自分自身の内の塩気を保つように、②他者との関係において平和の内を歩むように、と勧められた。
塩気を保つ具体例は同章43〜47節にある。私たちは躓きとなるようなものと決別しなければいけない。罪から贖われた身は罪と同居することがもはやできない。手や足の言いなりになるのではなく、決断の鞭を振るって罪に引き込む誘惑となることから手足を離し、塩気を保ち続けよう。他者との関係の具体的な教えは38〜42節にある。神に罪を赦されたのに、他者を赦しておらず、他者との関係に平和がないのは矛盾である。