2017年4月16日「希望を与える主の復活」

イースター礼拝

聖書箇所:ローマ人への手紙 6章1 ~11節
熊久保 公義 牧師

それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであったことを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

聖書 新改訳©1970,1978,2003新日本聖書刊行会

 
キリストの復活は救いの完成を保証するものであり、罪の負債がすべて支払われたことがこれにより分かります。一方で今日開いた箇所は、キリストの復活が単に信仰者への将来的希望を与える(天国に入る)だけではなく、今現在の生き方が罪と縁を切る歩みになることの証拠だとも言っています。
パウロは5章までで、自分の善行の結果ではなく、キリストを信じる信仰によってのみ救われることを述べてきました。では、行いは関係ないとすれば、信じた後に罪を犯し続けても良いのでしょうか?この推論は全くの誤解です(2節)。
理由は、キリストを信じるバプテスマ(洗礼)はキリストに結合するバプテスマであり、キリストの死と私たちは同じようになり、もはや罪の支配に対して全く反応できない者にまでされたからです。しかも、死んだだけではありません。キリストの復活にも与り、私たちは新しい人とされています。罪の影響をまったく受けないばかりか、今では神の影響を受けて新たに生きることができるのです。それゆえ、救われた者は罪にとどまることができません。
古い自分を殺すこと、新しさに生きようとすることは私たちの責任ではなく、すでにキリストによりしんだのであり、今やキリストによって生きる者とされているのです。ですから信仰者はそのことを自分に言い聞かせるように勧められているのです(11節)。
主の復活は私たちにとって何という望みでしょうか!