2017年5月21日「みことばと不機嫌」

聖書箇所:Ⅰ列王記 20章 31~43節
熊久保 公義 牧師

家来たちは彼に言った。「イスラエルの家の王たちはあわれみ深い王である、と聞いています。それで、私たちの腰に荒布をまとい、首になわをかけ、イスラエルの王のもとに出て行かせてください。そうすれば、あなたのいのちを助けてくれるかもしれません。」こうして彼らは腰に荒布を巻き、首になわをかけ、イスラエルの王のもとに行って願った。「あなたのしもべ、ベン・ハダデが、『どうか私のいのちを助けてください』と申しています。」するとアハブは言った。「彼はまだ生きているのか。彼は私の兄弟だ。」
この人々は、これは吉兆だと見て、すぐにそのことばにより事が決まったと思い、「ベン・ハダデはあなたの兄弟です」と言った。王は言った。「行って、彼を連れて来なさい。」ベン・ハダデが彼のところに出て来ると、王は彼を戦車に乗せた。ベン・ハダデは彼に言った。「私の父が、あなたの父上から奪い取った町々をお返しします。あなたは私の父がサマリヤにしたように、ダマスコに市場を設けることもできます。」「では、契約を結んであなたを帰そう。」こうして、アハブは彼と契約を結び、彼を去らせた。
預言者のともがらのひとりが、主の命令によって、自分の仲間に、「私を打ってくれ」と言った。しかし、その人は彼を打つことを拒んだ。それで彼はその人に言った。「あなたは主の御声に聞き従わなかったので、あなたが私のもとから出て行くなら、すぐ獅子があなたを殺す。」その人が彼のそばから出て行くと、獅子がその人を見つけて殺した。ついで、彼はもうひとりの人に会ったので、「私を打ってくれ」と頼んだ。すると、その人は彼を打って傷を負わせた。それから、その預言者は行って道ばたで王を待っていた。彼は目の上にほうたいをして、だれかわからないようにしていた。王が通りかかったとき、彼は王に叫んで言った。「しもべが戦場に出て行くと、ちょうどそこに、ある人がひとりの者を連れてやって来て、こう言いました。『この者を見張れ。もし、この者を逃がしでもしたら、この者のいのちの代わりにあなたのいのちを取るか、または、銀一タラントを払わせるぞ。』ところが、しもべが何やかやしているうちに、その者はいなくなってしまいました。」すると、イスラエルの王が彼に言った。「あなたはそのとおりにさばかれる。あなた自身が決めたとおりに。」彼は急いで、ほうたいを目から取り除いた。そのとき、イスラエルの王は、彼が預言者のひとりであることを見た。 彼は王に言った。「主はこう仰せられる。『わたしが聖絶しようとした者をあなたが逃がしたから、あなたのいのちは彼のいのちの代わりとなり、あなたの民は彼の民の代わりとなる。』」イスラエルの王は不きげんになり、激しく怒って、自分の家に戻って行き、サマリヤに着いた。

聖書 新改訳©1970,1978,2003新日本聖書刊行会

敵国アラムの王ベン・ハダデと彼の高官たちを、イスラエルの町々の返却とアラムの首都ダマスコにおける市場の開設を条件に逃してやるアハブ王は、一見憐み深い王のようにも見える。確かに聖書には敵を赦すことが勧められているが、今日の箇所の問題点はそこではなく、聖絶(神にすべてを捧げきる)のものに手を出して神の戦いを自分の利益のために利用してしまった点にある。アハブは主が勝たせてくださった時、これを機に自分の立場を強くしようと計算したのだ。人は神の栄光を盗んではならない。私たちもこの点で失敗しやすい者ではないか。祈り願っていた道が開けると自己中心に進むことや、奉仕の際、自分のことを覚えていてもらいたい誘惑にかられること等。自分が忘れられるほどに、ただ神の栄光のために捧げきる姿勢こそ聖い。
後半の箇所は二つの点を示す。
①預言者は、自身や他者が傷つくからといってみことばに従えないなら、預言者失格である。
②みことばを聞く人は、語られたみことばによっても自分の価値観や判断をあくまでも正しかったと握りしめ続けるならば、不機嫌にしかなれない。
いずれも語られるみことばに対してどのように応答するかが重要である。