2017年6月18日「神との和解」

夏の特別ウェルカム礼拝

聖書箇所:ローマ人への手紙5章10節
鞭木 由行 師

もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

聖書 新改訳©1970,1978,2003新日本聖書刊行会

 
本節には二つの命題が対比させられている。
①敵であった私が御子によって和解させられた。
②和解させられた私が救いにあずかることはもっと易しい。
「敵であった」。クリスチャンホームで育った者たちは倫理的にひどい罪を犯すことは少ない。しかし、神を認めていると言いながらその神に完全にお従いする決断を拒んでいるならば、神に敵対しているのだ。福音をこれまで聞いたことのない人たちは、神を知らなかっただけであって、神に対して敵対している意識はないかもしれない。しかし生んでくれた両親を無視し続ける者が親に敵対しているように、神を認めない者もそうである。そもそも私たちは良心をも無視している。何が正しいか私たちは薄々気付いているがそれに従っていないので、私たちは皆罪びとであり、神に敵対しているのだ。
「御子の死によって和解させられた」。イエスの教えや歩みではなく十字架の犠牲の死によって神の側からの和解が提示されている。これを受け取るならば和解が成立するのだ。
和解を受け身によるのであり、私たちの善行如何によるのではない。和解させられたものが救われるのは当然である。信じて受け取る者には必ず救われる確証と平安が与えられるのだ。